
昔、甲子園一帯は、兵庫県武庫郡鳴尾村と呼ばれていました。大正年間に始まった全国中等学校優勝野球大会の人気は高まり、豊中グランド、鳴尾球場でも大勢の観客を収容しきれなくなりました。鳴尾では試合中に観客がグラウンドになだれ込んで試合が中断するという事態にまで発展し、本格的な野球場建設に乗り出す必要が出てきました。
そうして、1924年7月31日 西宮市の武庫川の支流である枝川、申(さる)川を廃川とし、その川沿いに埋め立てられた場所に完成したのが甲子園の始まりです。当時国内にあった野球場では参考になるものがなく、ニューヨークにあったニューヨーク・ジャイアンツの本拠地、ポロ・グラウンズをモデルに設計されたと言われています。完成するまでは紅洲(べにす)遊園地と名づけられていましたが、この年の正月に阪神電車関係者が西宮えびす神社に参拝した時に十干十二支の最初の組み合わせに当たる甲子年(きのえねのとし)が60年に1度来ると言う縁起の良い年である事から後に阪神電車甲子園大運動場と命名されたのです。
「甲子園のツタの秘密?!」 最初のきっかけは甲子園の設計にあたった野田誠三(後の阪神電鉄社長)が、壁面の装飾を考える際に、「一番手っ取り早く、費用もかからず、かつ有効な方法」としてツタによる緑化を考え出し、球場が完成した大正13年の秋から年末にかけて植えられたといわれています。年を追って成長したツタは、3年後には壁面の約1/3~1/2を覆うほどになり、5年後には内野スタンドほぼ全面にまで広がりました。 2007年に開始されたリニューアル工事によりいったんツタは伐採されましたが、リニューアル後には植樹され、再び球状全体を覆うまでになるのです。